渋谷アメデオ

SHIBUYA Amedeo

やんわりとした絶望を抱きしめた暮らしがしたい

 まだ自粛が始まる前の 2 月頃、インバウンド減の影響をもろに受け、僕の会社もご多分に漏れず苦戦していた。その状況下で上司は「このインバウンド減も 7 月頃には回復してくるとするやん?」と僕が堅実に組んだプランを根拠に基づかない内容で大幅に修正した。今はもう 8 月。先日は同じ上司が「リモートワークが徹底されて出張も禁止になってるけどこれももうすぐ緩和されると思うねん」とヘラヘラしながら言っていて、僕は聞こえないふりをした。彼は今、新幹線使わなかったらええんちゃうん? と快速電車で岡山まで出張に行く準備をしている。きっと今度は「え、お前うがい薬使ってへんの?」と言ってくると思う。もう彼の話は聞きたくない。

 街に人が戻り、マスクを外し、手指の消毒すらしない人が増えてきた気がする。飲食業や販売業で働く友人も少なくないから、いつまでも自粛だ休業だと言っていられないのも理解している。経済を回していかなくちゃ今はなんとかなっている業態の人たちの生活だっていずれはどうにかなってしまうかもしれないし。でも、だからと言って、以前と全く同じ状況にまで戻そうとするのはどういう心理状態なの。マスクをしない顧客と遭遇する回数が増えてきた部下たちが「この状況で働けって言うんですか、会社は私たちを守ってくれないんですか」と声をあげてきたけど、社畜としてしっかり育ってきた結果「黙って辞めるか、黙って続けるか」の 2 択しか知らない僕はなんとも言ってあげることができなかった。

 今の状況を一言で説明するならば、やんわりとした絶望。

 ちょっとスピってる友人から「世界は 60 から 70 年ぐらいの周期で変革が生じるものなの、それが今。新しい世界に変わっていく途中ではしんどいことだってあるよ、好転反応みたいなもんだから」と言われて、やっぱりちょっと絶望した。この状況が好転反応好転反応って良くなる方向が見えているからこそ耐えられるものでしょ。元の状態に戻ろうとしているばっかりで誰も良い方向に進もうとしていないじゃない。

 この絶望とうまく付き合っていく方法が分からない。 

タイの BL ドラマのような暮らしがしたい

 家の中で過ごす時間が増えたのを良いことにタイの BL ドラマを片っ端から観ている。だって YouTube で全話公開されてんだよ、すごくない? ネット配信系の配給会社っぽいんだけど、まずは観てもらってナンボでしょ、ていうそのスタンスが非常に今っぽくてとても良い。実際、各作品は全世界でファンを獲得していて、字幕ボタンを押すと多くの言語に翻訳されているのが分かる。すごい、全世界の腐女子がここに集まっている!(しかも全世界の腐女子のツボが一緒!)

 タイ BL ドラマの何が良いって、基本的に展開がポジティブなんだよね。そりゃドラマだから物語としての浮き沈みってのはもちろんあるんだけど、基本的に全部が肯定的なの。「主人公の青年が意識した相手は男性だった」なんてのはこの手のドラマでよくある葛藤の場面なんだろうけど、タイ BL ドラマではそこはあまり重要ではなくて、そんなことよりも主人公たちがどれだけ相手を想っているか、どれだけ相手のために行動しているかが丁寧に描かれる。

 そもそも「え、お前、男が好きなの? マジかよキッショ」みたいなシーンがほとんどない。というか、観ている限りでは SOTUS のシーズン 2 で主人公の被害妄想として一瞬描かれたぐらいで、分かりやすくバッシングされるシーンは全然出てこないんじゃないかな。話題の 2gether も主人公の 1 人が仲間たちから「変態かよ」と軽く言われたぐらいで、それが「気持ち悪い」「お前とは一緒に居られない」という台詞には発展していない(ニュアンス的には、俺にはちょっとわっかんねーわ、ぐらい)。そんなのポリコレ的な配慮でしょ、て言われてしまったらそれまでなのかもしれないけど、こういうドラマが生み出せるタイの土壌に感動している。暗い部分に着目して同情や当事者の共感を得ることよりも、明るい部分に注目して肯定的なイメージをどんどん獲得しようとしてくれていることのほうが観ている側としても気持ちが良いしね。なんで日本で、日本でこういう作品が作れないんだ! どうしてこういう生活ができないんだ!

 あと単純に、俳優陣がドンズバで好みです。二重まぶたががっつりこってりした大きな目とか、ツンと尖った感じの顎がもともと大好物なので、基本的にタイの俳優陣は全員どストライクです。

 2gether で主役の 1 人のお友達を演じている Mike さん。ずっと噛ませ俳優ポジションで輝き続けて欲しい。タイの俳優さんは SNS の活用がめちゃめちゃアクティブで、俳優自ら新鮮なネタを投下し続けてくれる。サービス精神旺盛すぎるだろ。

 
 
 
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happy sunday everyone 🦊🧡

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 SOTUS で神経質そうな後輩くんを演じていた Fiat くん。いつまでも中学生みたいなビジュアルは凶器。高身長になりがちなタイ俳優陣に対して 170cm ぐらいしかないそうなので(タイの平均身長からしたら普通なんだろうけど)全員が横並びになったときに彼ひとりだけポコンとヘコみができるのももはや作戦だと思う。

 
 
 
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犬と生きる暮らしがしたい

 毎朝 6:30 に目覚ましを鳴らしている。
 迎え入れた子犬はそろそろ月齢 6 ヶ月になろうとしていて、子犬から成犬へと心身ともに成長し始めている。乳歯が抜け始めたり、自我がはっきりして反抗期が始まったり(露骨な無視やわざとトイレを失敗するようになる)、毎日何かしらの事件が起きるので僕としては退屈をしない日々を過ごせている。ごめん、ウソ、毎日退屈しないとかウソ。退屈どころか毎日が子犬と僕の戦争だよ。迎え入れる前からかなり覚悟はしていたつもりだったけど、もともとが運動量を必要とする犬種なのに加えて、全てに手がかかる子犬であるということ、そして僕自身が一人で犬を飼うのが初めてだというのもあって、文字通り毎日何かしらの失敗と成功に一喜一憂している。
 リモートワークのおかげで犬を飼い始めたことが即効でバレて、カメラ越しに子犬をお披露目するハメになる。そもそも転職したばかりで僕の性格もよく知らない同僚たちは訳知り顔で「いいよねえ、かけがえがないよねえ、心の支えになるよねえ」と言ってくるけど、とんでもねえ、心の支えになんてなりゃしねえよ、毎日がストレスとの戦いだよ。 構えば興奮して暴れる、構わなくても退屈で暴れる。子犬自身ではまだ自分をコントロールできないため、一度暴れ始めると転ぶとかぶつけるとか何かしらの事故に発展するまで止まれない。なので、こちらがあの手この手で子犬を止めるんだけど、子犬には止められる意図なんて当然理解できないので、ただただ僕が子犬を邪魔しているだけという構図になる。報われない、びっくりするほど報われない!

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膝の上にいるときだけは大人しい

 愛玩用に小型化されているとは言え、起源は小動物を追い回す狩猟犬だ。1 日に必要な運動量は朝晩 60 分ずつだと言われている。夜はともかく、朝は仕事があるので仕事の支度をする時間も考慮して散歩に行かなくてはならない。6:30 に目覚ましを鳴らし、散歩用の身支度をし、サークル内の掃除と餌の準備を済ませ、家を出るのが 7:30 ぐらい。そこからみっちり 60 分散歩に行って、帰ってきたら餌を与え、自分の朝食も済ませ、スーツに着替えたら大体 9:00 過ぎ。なんとか 10:00 には仕事先に到着できる計算だ。眠い、子犬が来てから毎日がとても眠い。だって、それまで下手したら 9:00 ぐらいまで寝ていた人間だよ? むしろこんな生活ができていることのほうが凄くない? 子犬が来てから僕の体重は最大で 3kg 落ちて、体脂肪率は 2% ほど下がった。子犬の健やかな成長に反比例して、僕の身体はどんどんとやつれていく。でも、仕方がないじゃん、命を預かっちゃったんだもの。自分一人がなんとかなればいいって話ではなくなっちゃったんだもの。だから僕は絶対に死ねない。心の支えにするにはまだまだだけど、少なくとも生きることの支えにはなってくれている。最高に幸せな犬にしてみせるぜ。

死なない暮らしがしたい

 最近は常に、これが今生の別れになるかもしれないと思っている。

 仮に誰かが死んだとしてさ、その人の関係性にもよるとは思うんだけど、元気な内にもっと会っておけばよかった、もっとできることがあったはずだ、と誰もが考えると思う。数年前にうちの爺さんが亡くなったんだけど、死ぬ一週間前に会ったときには僕のことなんかすっかり分からなくなっていて、寂しそうな顔で「誰だ……? 知らん……」とだけ言われて、それが僕たちの最期の会話になった。僕が地元に暮らしていて、毎週のように顔を合わせていれば、もしかしたら爺さんは最期の時まで僕のことを覚えていてくれたのかもしれない。でも、僕はそれをしなかった。しないことを選んだ。だから、なるべくしてなった結果なのだと受け止めている。

 他人と気安く会えなくなり、画面越しにみんなが生きていることを確認する日々。と言いつつも、仲間内の中ではもともと「年に 1 回でも顔を合わせればいいほうのレアキャラ」みたいな扱いだったので、この自粛生活が辛くて寂しくて堪らない! となることもなく、ヨガのスタジオがクローズしてしまって困ったな、と自室にヨガマットを敷くなどをして過ごしている。幸いにして、誰かにうつされることも、うつすこともなさそうな僕の生活(『うつす』の漢字が分からなかったんだけど『伝染す』ではなさそうってことだけは分かる)

 もし、僕の身体にこのタイミングで何かあったとしたら、きっと床に人型のどす黒いシミを作ることになるんだろうな。他人との繋がりが薄いことが功を奏すのか、それが最大の過ちになるのか、今の状況はどっちしてもあまりハッピーではないよなぁ。 

 2 ヶ月前から犬を飼い始めた。こんな状況でよくそんな余裕があるもんだな、とみんなに言われるけど、逆に家にいることの多いこの状況に子犬を迎え入れられたのは結果的にタイミングが良かったと感じている。迎え入れたときは全然そんなこと考えていなかったけどね。ただでさえ収入に不安が生じ始めているこの時期に、犬関連で支出がモリモリ増える。犬のために死ぬ可能性まで出てきた。でも、まあ、死なないよ、死んではいけない理由ができてしまったからね。今年で 35 歳、未だに生きなきゃいけない理由を作ることで精一杯だ。

波風立てない暮らしがしたい

 同居人がゲイだった。

 マッチングアプリで見つけてしまった。「ウケよりリバ」って情報と一緒に、顔写真を載っけていた。単刀直入に言って、キモすぎる。

 何がキモいって僕、僕自身がキモい。ずっとノンケだと思い込んでいた僕が一番キモいしあり得ない。実際にシェアを始めるまでのやり取りで、女性顧客が多いジャンルの販売職をしていたり、植物に関心が強かったりっていう事前情報はあったものの、それは別にマッチョではないストレート男子ってことなんだろうなと思っていてさ。思っていてっつーか、思い込もうとしていたって言ったほうが正しいんだろうけど、それが今、僕が勝手に決めつけていたことが否定されて、僕が勝手にショックに受けている状況。ゲイだろうがノンケだろうがどうでもいいはずなのに、気持ちのどこかで「こんな人はゲイであって欲しくない」って考えていたってことだから、それがキモい、そんなこと考えていた自分が何よりも一番キモい。

 最高にダサいなって思うのは、ゲイじゃないと思っていたから色々と許していたという事実が僕自身にあったところ。例えば、家中をその香りで充満させてしまう繊細さも感じられない香水のつけ方とか、安くて良い買い物だったと誇らしげに語る割には丈も足りずに柄もイマイチな共用部のカーテンとか、いやいやこれでゲイとか言い出したら逆に信じらんねえわ! て思う行動の数々に、ノンケだから仕方がないわなって納得しようとしてたの。ゲイだから納得できるできないとか本当は関係ないのにね。 本来ならこういうことに自分が一番敏感でなくてはいけないはずなのに、どんどん湧き出る自己嫌悪に項垂れるしかない。

 同居人自体が僕のことをどう思っているのかは知らないけど、最近はようやくこの同居生活にも慣れてきたみたいで、自分の話を少しずつしてくれるようになった。コミュニケーションの基本は自己開示だと思っている僕が実家の事情も含めて明け透けに喋ってしまうから、それに感化されたのかもしれない。先日は少し重ための身の上話を聞かせてくれて、なんなら「この先どうしたらいいんですかね…?」とすがるような上目遣いで言ってきたので、待て待てやめろ、僕は君の恋人じゃないし、そもそも友達としても微妙な関係だ、波風立てずに生活をしたいだけのルームメイトだぞ、余計な負荷をかけるんじゃない。単刀直入に言って、キモすぎる!

年の瀬ぐらい前向きに終われる暮らしがしたい

 ノストラダムスの大予言が 1999 年、記念すべきミレニアムイヤーに世界が沸き立ったのが 2000 年、新世紀の始まりに夢と希望を膨らませたのが 2001 年。その時の僕は中学 2 年生から高校 1 年生で、多感な時期にインターネットと共に過ごし、モニタを通して世界を眺めては、自分はなんでこんなところにいるのだろうと悶々とする日々を過ごしていた。ノストラダムスの大予言が現実になってもならなくても田舎の中学生だった僕には関係のないことだったし、2000 年問題で世間が頭を抱えていてもいなくてもケータイすら持っていなかった僕には関係のないことだった。大晦日のあの日、リビングでテレビを観ながら、僕が今この瞬間に東京で暮らしていないのは何故なんだろうとぼんやり考えていた。生まれてくるタイミングが悪かったんだ、と自分の出生のタイミングを呪ってもいた。出生のタイミングはさすがに自分ではどうにもならないのにね。どうにもならないことをどうにもならないものとして受け止めて、呪って、その上で諦めてしまう僕の癖は、この時期に養われたような気がする。

 この 1 年間で、父親との仲がさらに悪化した。悪化しないように関わらないようにしていたのだけれど年齢的にも家の問題は避けづらかった。詳細には書けないのだけれど、ここ数年間続いていた相続問題で、勝手に期待され、勝手に喜ばれ、勝手に失望され、今は父親から失敗作扱いされるフェーズに入りかけている。このまま上手くいけば父親からは勘当され、最初から居なかった扱いになると思う。うちの家族は姉ちゃんが早々に勘当されており、家族の行事も姉ちゃん不在で進められる。この前さ、爺さんの葬式かなんかの挨拶で父親が「こうして孫全員に見送られ」とか言っててさ、笑っちゃったよ、ここに姉ちゃん居ねえじゃん、つって。全員揃ってないじゃん、つって。

 来年、引っ越ししようと思っているんだ。転職しようとも思っている。あと、犬を飼うんだ。イタリアングレーハウンドって知ってる? 脚が折れちゃいそうなぐらい細いんだけど、流線型の走るフォルムがとても美しくて、すごく活発な犬種なんだ。短毛のシングルコートだから抜け毛も少ないし、匂いもほとんどないんだよ。ちょっとネズミっつーかカンガルーみたいな顔しているけど、それはそれで愛嬌があって可愛いよね。犬なんて飼ったら恋人ができなくなる? それみんなよく言うけど、恋人のことなんだと思ってんの?

 自分には無理だから、これが今の自分の能力だからと諦めてきたのは青春時代にミレニアムイヤーを片田舎で過ごしてきてしまったことと、父親との関係性から生じた、自分で自分にかけた呪い。平成も終わることだし、全てをぶっ壊して新しい何かに挑戦するにはちょうどいい気がしてきた。

ありのままを受け入れられる暮らしがしたい

 全米なんちゃら認定資格っていうのを取得したので、勉強してきたことのまとめと、初心を忘れないぞという気持ちも込めて、少し書きたいと思う。

 ヨガの話です。

 ヨガって、すぐにスピってくるじゃん。くるのよ。油断するとすぐに「大地との繋がりを意識して」とか「心を開いて太陽を受け入れて」とか言ってくる。ヨガをストレッチと筋トレの中間みたいな感覚で始めた僕みたいな人間からするとあのスピった感じって不可解でしかなくて、スピった要素を出されれば出されるほど「身体は健康になっても精神的に健康になりきれない感がキツい」と思ってしまっていた。実際、日本でヨガが、特に男性の間でポピュラーにならないのって、気を許すとすぐにスピリチュアルな要素を出してくるその考え方と、ストリートファイターダルシムのせいだと僕は思っている。

 でも、それこそがヨガなんだよね。

 ちゃんと勉強してみて分かったことは「ヨガは精神性を非常に重視する」ということ。それが宗教的とかスピリチュアルという風に見えてしまうんだろうけど、なんて言ったらいいのかな、日本人的な感覚で例えるなら、ご飯を食べる前に手を合わせるとか、お天道様が見ているから悪さはできないとか、日常生活において「そうするとなんとなくしっくりくる」みたいなレベルの話よ。古代インドから積み上げられてきた「なんか分かんないけど、そういうもん」的な発想で心を穏やかに日々の生活を過ごすための考え方で、それを突き詰めるための方法論こそがヨガなの。びっくり人間よろしく身体をあらゆる角度でぐにゃぐにゃに曲げるこれもヨガだし、瞑想を深めて意識を空っぽにするあれもヨガだし(空っぽにしているわけじゃないと先生に怒られたけど)、呪文(マントラ)をぶつぶつ唱えるのもそれもヨガ。先生はそれを学派の違いぐらいに捉えればいいよって言っていた。

 「日々のストレスの原因は結局、自分自身を受け入れられずに他者と比較してしまうところから生じるもの。できる自分は誉めればいいし、できない自分はそういうもんだと受け流せばいい。周りを見てあれやこれやと考えてひとり勝手に焦って自滅する前に、まずは自分のことを理解してあげよう。あるがままの自分を受け入れることを突き詰めていけば、ストレスのない生活を過ごせるはず」、そんな感じのことをヨガは教えてくれる。 

 じゃあ、そんな考え方のヨガでなんでまたあんな身体が悲鳴をあげるようなポーズをするハメになるかっていうと、それが「できないことをちゃんと知る」ためのメソッドだからなんだよね。ヨガのあのポーズたちを出来るようになることが目的なのではなくて、あのポーズに至るまでに、身体のどこが固くて、どこが痛くて、何をすると悲鳴を上げて、どれぐらいだと心地良い伸び感を得られるのか、そういうのを少しずつ確認することで「今の自分自身を受け入れる」ことを知っていく。そういう鍛錬ってことなのかな。

 
 
 
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 正直、全然受け入れられないんだけどね。

 他人と比較しちゃいけないって言うけどさ、無理だよ。比較するよ。だって僕が憧れるヨギーたちはみんな穏やかな表情でアクロバティックなポーズをキメちゃうムキムキマッチョなお兄さんたちばっかりなんだもの。なんなのあの柔軟性、なんなのあの筋力。生まれ持った素材の違い? 成長期にちゃんと運動して育まれた身体構造の違い? それともポジティブな人間性の問題? 単純に努力? どれも僕に備わってないやつじゃん! つまり僕はどれだけ頑張ってもあんな風にはなれないってこと? なるほど、僕の運動能力はゴミ屑ってことね。オーケー、分かった、ありのままの自分はゴミ屑ってことを受け入れたよ。

 全米なんちゃら認定資格というのを取得しても今の自分を一切受け入れることはできていないのだけれど、それでもそれなりに頑張って生きていきたいと思えている程度には、ヨガはやっていて楽しいなと感じている。簡単な、本当に簡単なヨガだったら教えられるので、興味があったら声かけてください(知らない人は声かけてこないでください)